この記事ではキラキラした話は出てこないです。いくら思い出しても、ちっともいい思い出がでてこないんです。
それと。
関係者が読んで、「事実とちげーよ」とか「ほんとかよ?」って意見もあるかもしれませんが、なにせ15年以上前の話なので、そりゃあうろ覚えで書いてたり盛っているところもあるかもしれません。
なので半分フィクションくらいの気持ちでどうぞ。
なんとなくの入部、意味不明ないじめ→中学1年
1年間難曲との格闘→中学2年
今はないのかな?
当時は全国大会に3年連続出場すると翌年は1年間コンクールに出れないって規定があったんですよね。
その代わりにコンクールで招待演奏をさせてもらえたり別の機会をもらってました。管楽合奏コンテストの全国大会にも出ました。
その年1年間取り組んでいた曲が、D.ホルジンガー作曲の「春になって王たちが戦いに出るにおよんで」
知ってますか?この曲。
ホルンがアホみたいに難しいんですよ。開始1分くらいのところからぜひ聴いてみてください。
1年の冬まで五線の中のFもろくに出なかったのにいきなり上のDまで吹けってんだから無茶ですよね。
思い出してみるとこの1年間で全身に力入れて振り絞ってハイトーンだすクセがついて気がします。
「ハイトーンどうやって出すんですか?」って講師の先生に聞いたら「足踏ん張って出せ」とか言われてました。当時はそれを信じるわけですよ。とにかくキツかった。
この年の吹奏楽コンクールの予選の招待演奏でこの曲を演奏したのですが、聴いてた人に「ヤマサン(母校)終わったね」って言われてたみたいです。
周りからの期待→中学3年
全国大会3年連続出場した翌年は1年お休み。その1年後って周りみんなが注目してるんですよ。今年のヤマサンはどんなだ?って。
その年のコンクールの課題曲はこれ。課題曲III「胎動の時代」
コンクール前日の体育館練習。
講師の先生がレッスンしてくれていて保護者の方も聴いている中。
「ホルンちょっとそこやってみて」
ー演奏後ー
「権左、そこフレーズの頭、本番吹かなくていいから。途中から入ってきて」
本番吹かなくていいから。
強烈に覚えてる記憶。
恥ずかしくて情けなくて。
後輩もいる中自分だけ。
で、迎えた本番当日。
結果は予選銀賞でした。
帰りのバスの中でみんな号泣。
「もっとできた」
「なんでがんばれなかったんだろう」
いくらそう思ってももう遅い。
その後うちの中学が全国はおろか都大会にも行くことはありませんでした。伝統はぼくの学年で途絶えたのです。
それから
コンクールが終えてから進路について考え出したのですが、特に行きたいところもやりたいこともなく。
中学でも散々やっていたので、「(金銭的な事情で)都立で吹奏楽が盛んなところ」に進学しようと思いました。
進学しようと決めた片倉高校は当時から有名な学校で、その後推薦で受かり、(全国大会に出るようなバンドなんだ、みんなうまいんだろうな!)と高校生活を楽しみにしていました。
その先にまた新たな地獄があるとも知らずに。
中学編はここまで。
おわりに
続きはそのうち。
それではまた。
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